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西安兵馬俑観光 西安兵馬俑行き方 西安観光オプショナル ツアー

スケールの大きさは圧巻!中国西安兵馬俑遺跡で古代中国の歴史に浸る
中国には47ヶ所の世界遺産があります。その中でも「万里の長城」、「北京故宮紫禁城)」と並んで、今回紹介する「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」は、世界中から観光客が押し寄せる人気スポットです。「秦始皇帝陵」を永遠に守るこの「兵馬俑遺跡」は、1974年に発見されるまで、2200年もの間地下に眠ったままでした。
兵馬俑遺跡が保存されている「兵馬俑博物館」は、西安市内から車で一時間ほどの場所にあります。
秦の始皇帝
秦の第一代皇帝である始皇帝は紀元前210年に亡くなり、陵墓の中心に葬られています。始皇帝は皇帝となった時から陵墓の建設を始め、38年の歳月と70万人の人々を動員し、自分の墓を作らせました。この「秦の始皇帝陵」は現在の西安市郊外に作られ、周囲約6.2キロ、高さ76メートルと巨大な規模を誇っていて、当時陵の上には宮殿や楼閣が築かれていました。
秦始皇帝陵は、兵馬俑博物館の入場券売り場近くのシャトルバス乗り場からバスに乗り、5分ほどで着きます。現在は公園として整備されていて、記念碑のはるか向こうに山として聳える「陵」が見えます。
兵馬俑博物館
写真:島野 佳幸
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約2200年前に埋葬された今衛師団の兵馬俑は、始皇帝陵を永遠に守る陵墓の副葬品として、陵墓の周囲を取り囲んでいます。その数8000体、それぞれ異なった風貌。等身大の大きさで平均身長1.8m、馬や戦車、青銅の兵器もあります。これらの兵馬俑秦始皇帝陵から1.5Kmほど離れた距離にある兵馬俑博物館にあります。
博物館は1号坑、2号抗、3号抗、秦始皇帝銅車馬陳列館に分かれていて、紀元前の秦で作られた姿をそのままの形で見ることができます。
兵馬俑一号坑
最大の一号坑は長さ230メートル、幅62メートル、深さ5メートル、総面積14260平方メートルです。野球場や陸上競技場のグランドの面積とほぼ同じ大きさという方がわかりやすいかも知れません。
博物館の入口を入りしばらく進むと眼下に、東に向かい整然と列を組んでいる6000体以上の歩兵の兵馬俑、40数台の木像戦車が見えてきます。圧巻です。
正面から見た後、大勢の観光客は順番に左右の通路に分かれて館内を進みます、人の声が館内にこだましています。圧巻の一号坑を出てしばらく道を進み二号坑に入ります、広さは約6000平方メートル、ここに安置されている戦車と弓兵の兵馬俑の数は千体余りです。孫子の軍事思想に沿うかたちで、戦車兵、騎兵、歩兵、弓弩兵が4つの陣形としてそれぞれ布陣されています。さらに三号坑に進むと俑の数は58体と規模が小さくなりますが、地下軍の司令部とされ、歴史的には重要な遺跡とされています。
兵馬俑
俑とは古代中国で死者を埋葬する際に副葬された人形のことです。木製のものや、布製の服を着せたものもありますが、多くはやきもので作られます。中国で俑が製作され副葬されるようになったのは春秋戦国時代のことで、兵士以外にも官吏、舞人や楽人などもあります。「兵馬俑」とはこの副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったものを指します。
兵馬俑の兵士の顔は同じものが全くなくすべて違う顔をしています。またすべての顔が秦の敵国が存在した東に向いています。
二号坑には、兵馬俑遺跡で出土した、弓矢の部隊の「立射俑」、「脆射俑」、指揮官の「武将俑」、馬の前に 1 体となった騎士俑「騎兵俑」などガラスケースに収められて飾られています。近くで兵馬俑の表情がよく見えます。
西安での観光
西安にはここ兵馬俑以外にも中国の歴史にちなむ観光地が数多くあります。
西遊記の登場人物として知られる「三蔵法師玄奘三蔵)」ゆかりの大雁塔、「楊貴妃」が湯浴みしたと言われる華清池、百人一首「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」を詠んだ興慶宮にある安倍仲麻呂記念碑、シルクロードの発着点となった西安の城壁で最大の西門(安定門) などです。
世界遺産兵馬俑遺跡の見学とともに、これらの古代遺跡を巡って、古代中国の歴史に浸ってみましょう。
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西安兵馬俑観光 西安兵馬俑行き方 西安現地発兵馬俑ツアー

紀元前11世紀以降、約二千年に渡り数々の王朝の都として栄えた中国の古都「西安」。かつては「長安」と呼ばれ、シルクロードの起点でもあった西安には、シルクロードの名残を感じさせるイスラム教徒の街「回民街」、明代の城壁や楼、三蔵法師ゆかりの「大雁塔」、紀元前の遺跡「兵馬俑」など、歴史的そして文化的な見所が一杯です。今回は、悠久の都「西安」の魅力をご紹介します。
西安の町の中心部は、明の時代(14世紀)に作られた立派な城壁に囲まれています。城壁の東西南北に門があり、その4箇所から、城壁の上へ登ることができるようになっています。
城壁の上は、広い道路のようになっており、その規模の大きさに驚かされます。城壁は一周約14キロ。自転車を借りて城壁の上を一周することもできますよ!
西安の町の中心部は、大部分が近代的な町となっているのですが、古い町並みも点在しています。上の写真は、城壁の永寧門(南門)の近くにある「書院門通り」。筆や紙、硯、墨などを扱う店が並ぶ、昔ながらの趣ある街並みが残っています。
西安城壁 永寧門 (南門)
アクセス:地下鉄2号線「永寧門」下車
西安の町の中心部のランドマークとなっているのが、14世紀に建てられた鐘楼です。高さ36メートルの鐘楼は、周囲の近代的なビルに引けを取らないほど壮大な木造建築。内部には、唐の時代の鐘が納められており、城壁の4つの門から伸びる大通りが交わる交差点のど真ん中に建っているので、鐘楼へは地下道から入場するようになっています。
鐘楼から500メートルほど離れた場所には、たくさんの太鼓が収められた鼓楼が建っています。こちらも、鐘楼と同様、14世紀に建てられたもの。当時の中国では、鐘楼と鼓楼が対になって、朝には鐘楼の鐘が時を知らせ、夕暮れ時には太鼓が時を知らせていました。
町の中心に聳え立つ「鐘楼」と「鼓楼」
現在では、鐘楼と鼓楼は、博物館として内部を見学できるようになっています。1日に数回、中国の伝統音楽の演奏も行われるので、その時間に合わせて入場することをおすすめします。
西安は、中国と西方を繋ぐシルクロードの起点となっていた町です。そのため、シルクロードを通じてやってきたイスラム教徒の子孫たちが、西安には今でも数多く暮らしています。そんなシルクロードの名残を実感できるのが、鼓楼の北に広がる回民街です。近代的に発展した西安の中心部にありながら、回民街の一帯には、昔ながらの風情溢れる情景が広がっており、散策が非常に楽しいエリアです。
回民街には、食べ物のお店や屋台がずらりと軒を連ねています。イスラム圏でお馴染みの羊肉を焼いたものやフラットブレッドなどを売るお店も並んでいますが、興味深いのが、羊肉を使った餃子やヌードルなど、中国文化とイスラム文化が融合した食べ物も数多く見られるところです。人気のお店には、お客さんが長蛇の列をなしているので、一目瞭然。西安ならではの、ストリートフードを試してみてはいかが?
散策が楽しい回民街
回民街の一角には、「西安清真大寺」と呼ばれるモスクがあります。8世紀に建造されたこのモスクは、中国の建築様式で建てられているため、一般的なモスクに見られるドーム天井やミナレットは見当たりません。一見仏教のお寺のように見えますが、よく見ると、通路がアーチ型になっていたり、アラビア語の彫刻が刻まれていたりと、ここでも中国文化とイスラム文化の融合を見ることができます。
モスクの敷地内は、回民街の喧騒がまるで嘘のような静寂が広がっています。モスクの敷地内への入場は有料ですが、庭も大変美しいので、ぜひ入場して見学されることをお勧めします。
西安清真大寺
住所:陝西省西安市蓮湖区化覚巷30号
アクセス:地下鉄2号線「鐘楼」下車
三蔵法師ゆかりの大雁塔
城壁に囲まれた西安の中心部から5キロほど南には、「大雁塔」という唐の時代に建造された煉瓦造りの美しい塔が建っています。「大雁塔」は、玄奘三蔵法師)がインドから持ち帰った経典を保存するために建てられたものです。
大雁塔は、大慈恩寺という仏教寺院の敷地内にあり、塔の最上階まで登ることもできます。大雁塔の上からは、かつての長安の都を彷彿させる、碁盤の目状に美しく区画整備された西安の街並みを一望することができます。この周辺は、街路樹も多く、非常に美しい街並みが広がっています。
大雁塔は、夜間になると美しくライトアップされます。大雁塔の北にある広場では、夜間になるとライトショーや噴水ショーなども行われます。西安の中心部からは地下鉄で簡単にアクセスできますので、是非訪れてみてくださいね。
二千年の眠りから覚めた兵馬俑
西安を訪れたら、外せないのが、世界遺産にもなっている「兵馬俑」です。1974年に発見された兵馬俑は、粘土を焼いて作られた実物大の兵士や馬が並ぶ古代遺跡です。これらの人形は、紀元前に、秦の始皇帝の墓の副葬品として埋葬されたもの。大量の人形が見渡す限り並ぶ様子は圧巻です。
現在までに発掘された8000体以上の兵馬俑は、どれひとつとして同じ顔をしたものがありません。実際に間近で兵馬俑を見てみると、その表情の豊かさや、鎧や装飾の細かさに驚かされます。二千年の眠りから覚めた兵士たちの今にも動き出しそうな姿にはロマンを感じますね。
兵馬俑は、西安の町からは30キロほど離れた場所にあります。兵馬俑を訪れる現地ツアーもたくさんありますが、お勧めは、公共バスを使って行く方法。西安駅前のバスターミナルから出ている「遊5(306)」というバスに乗って約1時間。バスの終点が兵馬俑です。
西安が都となったのは紀元前1100年頃。前漢や秦などの王朝の都となりました。中心部には大通りが東西南北に走り、周囲を15kmほどの城壁が囲んでいます。城壁の上はサイクリングできるようになっており、自転車を借りてぐるっと一周するのもオススメ。街を一望できるほどの高さなので、まずは城壁をサイクリングして街のどこに何があるのか掴むのも良いですね。
城壁下への降り口も至る所にあるので、お目当てのお寺や博物館までの途中まで城壁上を走ると時間の節約にもなります。
北大街と南大街の間にあるのが「鐘楼」。青銅でできた鐘が多く所蔵されている、歴史的な建造物です。大通り沿いからはどこからでも見えるので、町歩きの目印になります。近くには鼓楼という建物もあり、付近はショッピングエリアでもあります。商店やモールが集中しており、スターバックスなどのカフェもあるので観光の途中休憩にぴったりですね。
地下鉄駅直結なので、道に迷う心配もありません。
鐘楼は夜は美しくライトアップするので、記念写真を撮ってみると旅の思い出の一ページになりますよ!
西安のランドマーク的存在なのが大雁塔です。三蔵法師で有名な僧である玄奘が700年頃に建立した塔であり、中には多くの経典が納められています。
大雁塔は大慈恩寺というお寺の構内にある石造りの7重の塔で、お寺の前は大きな広場になっています。その広場では毎正時に噴水ショーが行われるので、時間になると多くの人が集まってきます。音に合わせて噴水が踊るシーンと背景の大雁塔が、現代と歴史の交わりを感じさせますね。
大慈恩寺の構内はとても広く、大雁塔以外にも本堂などの建物が多く建てられています。観光客はやや少なめなので、ゆっくりと歴史に浸りながら観光しましょう。
大雁塔に観光にきたら是非食べて欲しいのが「天下第一麺」というお店の「ビャンビャン麺」。画数58画という「ビャン」の字を使う、西安名物のピリ辛麺です。きしめんのように太いモチモチ麺が特徴で、とっても美味しいんです!西安中にビャンビャン麺のお店はありますが、天下第一麺はその中でも最も評価が高いお店。中国国内で多くの賞を受賞しており、国が認めた味として地元の方からも絶大な支持を得ています。
大雁塔まで来たなら天下第一麺は必食ですよ!
西安といえばやっぱり兵馬俑
西安駅からバスに乗って1時間ほど。秦始皇帝兵馬俑博物館は西安郊外にあります。秦の時代の副葬品として作られた兵馬俑は、屋根のある博物館の中でビシッと整列して保存されています。現在も発掘と修復が継続して行われており、今よりももっと埋まっているのかもしれません。
広大な第1号坑が一番の見所で、ズラっと並んだ兵馬俑を見ることができます。その数に圧倒されること必至です!一つ一つ表情が異なり、壊れずに何千年もこの地にあるという歴史に浸れる瞬間です。兵隊の形のもの以外にも、馬や車などの俑もあるので一つ一つ観察してみましょう。
これが2000年も前に作られたというのが驚きですよね。兵馬俑博物館は屋外で広いので、水分補給を忘れずにじっくり半日ほどかけて観光しましょう。
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龍門石窟 西安観光 西安旅行

中華人民共和国の江南省西部にある都市、洛陽に行ってみませんか。古来、日本でも京都を洛陽とよび、上京することを「洛上すると」言い、「洛中洛外図」が残っています。三国志で有名な曹操がここに都を置きました。洛陽はまさに古代の中国王朝の首都だったのです。洛陽で絶対に見逃せないのが、龍門石窟です。同じ仏教文化を受け継いだ国民として、そのルーツの一端を見ることは大いに意義があると思います。牡丹園と少林寺も紹介します。
西安空港へ飛行機で飛び、タクシーを西安北駅へ向けます。
そこから高速鉄道(新幹線)で約1時間30分かけて洛陽龍門駅に着です。
さらにバスで約30分かけて龍門石窟に到着します。
入場料は120元、徒歩でもいいですが、電気自動車のカートに乗って拝観場所まで行くと30元かかります。
龍門石窟は洛陽での最大の名所。
中国の代表的石窟寺院です。
伊ケツ山の硬い石灰岩を彫りこんだ洞窟とおびただしい数の仏教彫刻が刻まれているのですね。
石窟は北魏の時代から隋・唐・五代・宋まで続いて造建されているるとのこと。
西山の中央にある廬舎那仏は17mほどの高さがあり、作られた当時は石像をおおう木製の建物がついていたそうです。
両側に聖至菩薩や観世音菩薩などが立ち並んでいます。
そしてさらに右側には羅漢と明王が睨みをきかせています。
来訪者は西へ向いて仰ぎ見る形になるので西方冥途の仏教の教えが生きています。
中央にどっしりと座る廬舎那仏像
中央にある露座の大廬舎那仏は龍門石窟の中でも最大のものです。
この仏陀はよく見ると頭部の様子が日本のものとは違ってウェイブのかかった巻き毛になっているのですよ。
しかし、顔を見ているとどこかで見たことがあるように思えます。
そう。
あの目じりや丸い眉、頬の肉付きといい、東大寺の大仏のお顔です。
その通りで、東大寺の大仏はこの廬舎那仏をモデルに作られたのですね。
そう考えると長い年月、日本は中国の文化をモデルとしていろんなことを取り入れてきた歴史があることを再確認できます。
伊川東岸から見た石窟遠景
入場口側からは伊川を橋で渡ると西山の石窟群を見ることができます。
戻って東山の史跡を見るために少し高台に上がると先ほど見てきた西側の石窟がどっしりと落ち着いて見ることができます。
日本でも昔から西方浄土の三位聖人は仏教浄土信仰の対象とされています。
釈迦三尊と呼んだりしますが、本尊である阿弥陀仏(廬舎那仏)と両脇の観音菩薩勢至菩薩にあたる仏像がいいバランスで立っているのが遠景で見ると、より一層感じられます。
彫った人々の歴史がうかがえる龍門石窟アパート
ここでは2100の窟と大小10万体の石像が現存しています。
古陽洞と呼ばれる石窟がそこら一面に彫られていて、内側には、それぞれ仏が彫られているのです。
その時代の豪族たちが、一族の繁栄と先祖を敬って築造したものか、それとも仏門に入り修行をする上での鍛錬の行が石仏を刻み込んでいくことであったのか、想像に任せるしかありません。
いずれにしても一時的にできあがったものではなく、長い年月を人々の信仰心が絶えることなく切々と歩み継がれたことが、このような仏像群を作り上げているのは間違いありません。
日本にももたらされた仏陀像の横顔
確かに奈良の東大寺金堂の中に座っている大仏さまの顔と似ています。
切れ長の目に鼻筋がすっきりとしていて頬が豊かで唇がほほえましくもあり、きりりと結んでいるようでもあります。
円形の眉はくっきりと彫られていて、そのカーブは大仏様そっくりと言ってもいいのではないでしょうか。
よくよく見てみますと、九州は国東半島の臼杵石仏にある大日如来ともとてもよく似ているように思います。
おそらくは当時の日本人が中国に渡って学んだ像の描画を持ち帰ってから彫ったのではないかと思えます。
ジャイアントストーンの睨み
廬舎那仏を警護する四天王像が両側に立ちはだかっています。
左側の2体は頭部が崩れていますが、右側の2体は表情がはっきりとしていて参拝者を睨みつけるようにしています。
羅漢は左手を胸にとり、右手は腰に当てて不動の姿勢をとっています。
明王は右手に宝物を持って左手はやはり腰に当てて立っています。
ここへ来るものは迷うことなく一心不乱に祈りなさいとでも言いたそうな雰囲気です。
達磨によってもたらされた禅宗と武術の少林寺
洛陽市内からタクシーで約1時間半で到着します。
江南省鄭州市登封に位置していますが、ここは中岳嵩山の山麓です。
達磨大師がインドから渡来し、禅宗を始めた寺であり、中国武術少林寺拳法の発祥の地でもあります。
寺の造りは七堂伽藍で落ち着いています。
境内に入ると銀杏の樹があり、修行僧が毎日指で突いたという穴が幹に無数開いています。
武術修練の場としての千仏殿の床は石畳なのですが、ここにも修行僧たちが踏み込んでできたという石畳のくぼみがたくさんあります。
洛陽牡丹園美しいシャクヤクの花
洛陽市内には公園施設がたくさん存在しています。
その中でも牡丹の花が美しく整備されているのが洛陽国際牡丹園、中国国花園、王城公園、牡丹公園などです。
洛陽市内の道路にも牡丹大通りという名称があります。
日本でのキクに相当するのがボタンなのですね。
ピンク系の色が鮮やか。
毎年4月15日~5月10日は各牡丹園で牡丹祭りが開催されています。
中でも洛陽国際牡丹園は最大規模です。
洛陽国際牡丹園の住所・アクセスや営業時間など
名称 洛陽国際牡丹園
驚嘆をあげて訪れる人達
龍門石窟を訪れる人たちは観光目的はもちろんですが、仏教の信心深い人も存在し、石仏の前で両手を合わせてしっかりとたたずむ方もおられます。
同じアジア人として共感できるところは大いにあると思います。
急な登坂の石段を踏みしめて登り、やっと石仏の前に出たときは誰しもが「あ~」と声をあげてその偉大さにうなりの声をあげています。
もちろんその感覚も世界共通ですね。
アジア最大の音楽噴水ショー
洛陽市内で毎夜アジア最大の音楽噴水ショーが行われます。
洛陽市のビル街を背にして20万㎡の水辺にロックからクラッシックまでのさまざまな音楽とともに流れるように噴水を弾き飛ばせながら動きます。
さらにサーチライトやレーザー光線で様々な色が付き水辺の一大ステージが繰り広げられます。
地元の人はもちろん、観光客にも好評で大勢がひと時を楽しみます。
この噴水と音楽を同時に楽しめば、心新たなときめきが発見できるのではないでしょうか。
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西安兵馬俑観光 兵馬俑行き方 西安発兵馬俑ツアー 

20世紀最大の発見とも称される『兵馬俑
中国の小さな村で井戸を掘ろうとした農民が見つけたものは、世界を驚かせる歴史的大発見でした。ここではそんな、秦の始皇帝陵に寄り添うように造られた「兵馬俑」についてご紹介します。
兵馬俑は中国の西安から東に30キロ離れた臨潼県にある、秦の始皇帝陵の副葬坑。総面積は2万平方メートルを超え、総計8,000点にのぼるとみられる陶製の兵馬が、地下に配置されています。
1974年、この地に住む農民が偶然見つけた陶器の破片が、この世紀の発掘のはじまりでした。2000年以上誰の目にも触れずに地下に存在していたことから、発見当時は「20世紀最大の発見」と世界中が驚きました。
兵馬俑坑の西、約1.5kmには秦始皇帝陵があります。約2200年前に中国統一を果たした秦始皇帝は、70万人もの囚人を動員し、36年もの歳月をかけて陵墓の造営をしたと伝えられています。この兵馬俑たちは死後も始皇帝を守るために、敵国のある東を向いて、気の遠くなるような年月ずっとここに佇んでいたのです。
「俑」とは、殉死者の代わりに埋葬した人の形をしたものこと。ここに並んでいる俑はほぼ等身大で、表情、髪形、衣服のどれひとつとして同じ形のものはないというから驚きです。
当時は鮮やかな色彩で彩られていたと考えられています。俑に施された金銀製の装身具も非常に精巧なもので、当時の始皇帝の威光がいかほどであったかを伺い知ることができます。
まだ全ての発掘が終わっておらず、また『史記』に地下宮殿のようと記された始皇帝の地下陵も多くの謎に包まれたまま。この大迫力の兵馬俑は、悠久の時を超えて甦った巨大史跡のまだほんの一端に過ぎないのです。
今も発掘、研究作業が続けられている始皇帝を守る名もなき兵の隊列。その圧巻の迫力は、ぜひ一度自分の目で見る価値ありです。
兵馬俑(Terracotta Army)への行き方
日本からは、成田他国内主要空港から直行便が出ている西安へ。
秦始皇帝陵兵馬俑坑博物館へは西安の中心から車で約1時間。兵馬俑坑博物館へは西安駅からバスでも行けます(所要時間は約1時間、兵馬俑駅下車徒歩約5分)。
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兵馬俑世界遺産 西安から兵馬俑観光 西安発兵馬俑ツアー

兵馬俑博物館
古代中国では、生前の生活そのものを来世へ持っていこうという考えでしたから、王様が死ぬと生きた人間を殉葬することが多かったです。しかし、大勢の兵たちが殉死すると、国力が落ちるから、人形が代用されることになりました。そこで始皇帝は自分の兵士および馬をかたどった埴輪を造らせ、始皇帝陵の東1.5キロの場所にある副葬坑に埋めさせました。
兵馬俑 一号坑
史記』や『漢書』などの歴史書には始皇帝陵の存在は記されていましたが、長い年月のことで存在そのものが人々の記憶からだんだん消えてしまいました。1974年付近の農民が日照りに悩んで井戸を掘っているとき、陶器のかけらを偶然発見しました。これをきっかけにして、専門家はいろんな試掘調査を行っていて、「秦」という字が書いてある敷瓦を見つけました。これは秦の始皇帝時代の地下近衛軍団副葬坑であったと確認して、それから大騒ぎになりました。
発掘調査が行われると、人々を驚かせるような結果がどんどん登場します。たとえば、今から2200年前に制作された兵士の身長は176~196センチで、その顔立ちや髪形はそれぞれ違います。秦の軍隊がさまざまな民族から成り立つ混成部隊で、かつての秦の敵国が存在した東方を向いてきちんと始皇帝陵を守っています。それと同時に、当時の秦軍の装備や編成などを生き生きと見せています。さらに、表面にクロム酸メッキをした剣はなお青白い光を放っています。
数年にわたる試掘の結果、三つの副葬坑の存在が明らかになりました。発見の順を追ってそれぞれ一号坑、二号坑、三号坑と名付けます。
秦始皇兵馬俑博物館
主力右軍の一号坑は歩兵陣で、館内でもっとも大きいものです。東西幅230メートル、南北幅62メートル、深さ約5メートル、総面積12600平方メートルの地下室に、およそ6000体の兵馬俑が埋葬されているといわれます。そのうち約2000体が復元され、埋葬時のまま東を向いてずらりと整列して西の始皇帝陵を守っています。
主力左軍の二号坑は総面積約5600平方メートルのL字型で、戦車部隊、混成部隊、騎兵部隊と弩兵部隊から構成する混成陣です。現在でも発掘の最中にあり、見ものはガラスケースに収められた跪射武士俑、中級官吏俑、将軍俑、騎兵俑、立射武士俑です。
三号坑は小さく、526平方メートルで、南北の廂と真中の馬車小屋に分かれています。北の廂に鹿の角があり、ここで占いを行ったと推測できます。並べ方と発掘した武器からみると、南の廂にある兵隊はパレードであったと思います。全体の配置から三号坑は地下軍陣司令部であったとされます。
兵馬俑 修復区
なお、1980年に始皇帝陵の西20メートル、地下7メートルの所に二台の青銅製の馬車が見つかりました。復元された二台の馬車が兵馬俑博物館内に収められて、三か所の発掘現場と合わせて公開されています。
銅馬車展示室
1984年の時点で、陶俑1000余体、陶馬32頭、兵車8台、青銅製の武器1万件が発掘されたと報告されています。後7000体ぐらいの陶俑・陶馬がある見込みです。これが今世紀最大の発見と言われ、1987年、世界遺産に登録されました。
発掘現場で見ると、埋没している個体は折り重なっています。『漢書』には秦の始皇帝陵は項羽によって破壊されたと記されています。これらの破片を一つずつ掘り出し、組み合わせるのは決して容易な作業ではありません。そのほか、兵馬俑は当初が植物と鉱石の顔料に色づけされていました。発掘されたものは間もなく色褪せしました。専門家が色彩の残る文物を保護する技術の開発に没頭しています。21世紀に入った現在でも、兵馬俑の発掘調査は続いています。近年の報告によると、始皇帝陵の周りに珍しい鳥や文官や芸人などの埴輪も相次いで発掘されたそうです。これらの文物の公開を楽しみにしましょう。
秦の始皇帝
秦の先祖は甘粛省天水市辺りで牧畜を営んでいた氏族でした。秦の穆公は周の王様・周平王が洛陽へ逃れて政権を立て直したことに大きな功績をあげたから、西安の西にある「岐山」の地を褒美として得ました。それから、徐々に東への移動を繰り返し勢力を広げるようになりました。後の秦の始皇帝嬴政は紀元前259年に生まれ、13歳で即位し、23歳で親政を始め、法家流の思想をもって国を治めました。法治政治や軍事の充実に力を注いだ嬴政は東の六国を次々に滅亡して、紀元前221年に39歳の若さで天下を一つにまとめ上げました。
彼は古の三皇五帝にちなんで自ら皇帝と名乗り、中国最初の皇帝となります。始皇帝は中国歴史上、中央集権制という治世法を初めて採用しました。すなわち、咸陽を都とし、全国を各郡県に分け、中央政府が統括する形で官吏を任命して統治したということです。さらに度量衡や車の轍の統一と所謂焚書坑儒という思想統制を断行しました。それと同時に取りかかったのが大規模な土木工事でした。万里の長城阿房宮始皇帝陵、咸陽から各地へ向かう幹線道路であった馳道などです。
これらの大土木工事に苦しむ民は始皇帝の政治に不満をいだき、人心の離反と経済の破綻によって、ついに秦の末に陳勝呉広の乱など農民の蜂起が勃発しました。紀元前207年に秦朝が潰れてわずか14年の短命王朝となりました。
秦陵 世界遺産
謎を秘めた秦始皇帝陵
秦の始皇帝は即位してから西安市の東約30キロの田園地帯、驪山の麓で自分の陵墓建設を仕掛けて、天下統一後は約70万人もの徒刑者を動員したといいます。紀元前210年、始皇帝は河北省で巡幸の途中で病死して50歳の生涯を閉じました。夏場のことで、遺体は腐ったのです。反乱を恐れた部下は塩魚を積んだと言ってその匂いをごまかし、都の咸陽に戻るまで皇帝の死を隠しました。後に遺体は37年もの歳月をかけて完成した陵墓に埋葬されました。
司馬遷の『史記』には、陵は三層の水脈を掘りぬいて床に銅を敷きつめてできた地下宮殿で、自然界とまったく同じように造営されていたとあります。百官の座や空を造るのみならず、川や海をかたどって、水銀を水とみなし仕掛けで絶えずめぐらせて流してあります。墓室の侵入者に対して自動的に矢が反射されるトラップを設けました。また、陵墓の秘密が漏れないように、この工事にたずさわった人夫をすべて中に生き埋めしました。
一方、1981年、考古学者と地質学者が共同で探知機による墳丘内部の水銀調査を行いました。水銀の川や海の存在がほぼ確認されています。とはいえ、発掘した物を保存する確実な技術がまだ確立されていないゆえに、発掘作業の進め方はきわめてじっくりとした慎重なものです。始皇帝陵の謎のすべてが明らかにされるまで、相当の年月を待つしかありません。
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西安世界遺産地 秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」

死後も皇帝を守る精鋭たち「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」(1987年登録)
世界遺産となった中国の史跡旧跡の多くは、時の皇帝が権力を誇示するべく命じて作らせたもの。
永楽帝乾隆帝、太宗や康熙帝など、史跡の名前と共に何度も登場する皇帝の名前も。
中でもとりわけ異彩を放つのが、紀元前の秦王朝を築いた始皇帝でしょう。
始皇帝にまつわる史跡は中国全土にたくさんありますが、その力の強さを後世にまで轟かせた史跡といえばやはり、陝西省西安にある始皇帝陵と兵馬俑(へいばよう)でしょう。
秦始皇帝陵始皇帝の命で造られた大規模な陸墓で、その周辺一帯に一面を囲うように築かれたのが兵馬俑坑。
その面積はとても広く、兵馬俑坑だけでも2万㎡にもなります。
土の下からは陶馬が600体、武士俑(等身大サイズの成人男性の像)は約8,000体が発掘され、大変な話題となりました。
俑の身長は180㎝前後、屈強な体格で、今も始皇帝を守っているのだと考えられています。
1974年、井戸を掘っていた農民が偶然見つけたという兵馬俑
40年以上経った今も発掘は続けられ、謎多き史跡。
始皇帝陵の発掘も進められているとのことで、全貌の解明に期待が高まっています。
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西安観光 西安旅行 華清池観光

清華池(せいかち)
西安市の東約30キロの驪山の麓にあります。四ヶ所の湯元から43℃の温泉が絶えず湧き出ていて、一時間の湧水量が113トンに上っています。お湯が透き通って、石灰、炭酸マンガン、硫酸ナトリウムなど9種類の化学成分を含んでいて、関節炎、リューマチ、皮膚病に特効があるといいます。今から3000年前の西周時代から秦、漢、隋、唐の時代にかけて歴代の王様の専用温泉地として栄えていました。特に唐の玄宗皇帝の時代になると、華清池は最盛期を迎えてきました。
玄宗皇帝は唐代一の繁栄をもたらした名君でした。彼の息子・寿王の妃であった楊玉環が白居易の『長恨歌』で「眸をめぐらして一笑すれば、百媚生じ、六宮の粉黛顔色なし」とまで詠われた絶世の美女でした。その美しさに一目惚れした玄宗は、寵愛していた武恵妃を失うと同時に後宮に迎えてしまいます。745年彼女を貴妃という皇后に次ぐ位の官名に封じました。
華清池(かせいち)
747年、玄宗は都の長安の東約30キロの所に自分の行宮・華清宮を造りました。これらの宮殿は温泉を主として建てられたものなので、華清池とも呼ばれます。「春寒くして浴を賜う華清の池、温泉水滑らかにして凝脂を洗う」という『長恨歌』の一節があります。玄宗が最愛の妃・楊貴妃に湯浴みを賜ったことを記しています。寒さを避けるために、毎年10月になると、玄宗楊貴妃とともにここへやってきて、温泉に浸かり、春までを過ごしました。
華清池は栄華を極めた場所で、二人が愛を確かめあったことにぴったりの舞台といえます。が、一代の名君と褒めたたえられた玄宗が転落して堕落の天使になりました。毎日楊貴妃と歌舞、音曲、酒に明け暮れて、我が世の春を謳歌しました。愛情におぼれた彼が政務をおろそかにするあまり世が乱れ、ついに755年安禄山の乱を招きました。
楊貴妃の温泉
756年、戦火から逃れるため、皇帝は楊貴妃を始めとする身内と僅かばかりの側近を連れて四川に向かいましたが、百里ばかり進んだ馬嵬坡で、当時権力を独占していた楊貴妃の一族に対し、随行将兵たちの不満が爆発しました。軍を追われる羽目になる玄宗は兵の要求によりやむを得ず楊貴妃に命を絶つことを命じました。かくて楊貴妃は首つりで38歳の生涯を閉じました。
後に華清宮が数々の動乱で焼失され、だんだん衰えていきました。再び注目を浴びたのは、1936年12月12日のことです。西安事変の折、ここは蒋介石が張学良らに監禁された所です。蒋介石が過ごした五間庁の壁と窓に残された弾痕が生き生きと事変を物語っています。
西安事変の五間庁
新しい中国が成立した後、敷地内から玄宗皇帝専用の湯浴み・蓮華湯や、楊貴妃専用の海棠湯、宮女専用の尚食湯、唐の太宗皇帝の星辰湯などの湯殿遺跡と数多くの建築材にとどまらず、漢代の地層から新石器時代の陶器の破片も発掘されました。華清池を一層明らかにするのにこれらの文物は確実な資料を提供しています。
1959年、歴史書の記録に基づいて遺跡の上で華清池が一部復元されました。現在、湯殿遺跡と梨園遺跡が一般に公開されています。玄宗楊貴妃との寝室であった飛霜殿や、楊貴妃が入浴後髪の毛を乾かしたという飛霞閣なども見ものです。皇族の庭園に設けられた敷地内は池や緑に囲まれて美しいリゾートです。冬になると、湯元では温泉の湯気が霜のようにたちこめます。2007年、華清池は天下の名湯として国家観光局から5Aクラスの観光地資格を取得しました。
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