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西安観光 西安旅行 華清池観光

清華池(せいかち)
西安市の東約30キロの驪山の麓にあります。四ヶ所の湯元から43℃の温泉が絶えず湧き出ていて、一時間の湧水量が113トンに上っています。お湯が透き通って、石灰、炭酸マンガン、硫酸ナトリウムなど9種類の化学成分を含んでいて、関節炎、リューマチ、皮膚病に特効があるといいます。今から3000年前の西周時代から秦、漢、隋、唐の時代にかけて歴代の王様の専用温泉地として栄えていました。特に唐の玄宗皇帝の時代になると、華清池は最盛期を迎えてきました。
玄宗皇帝は唐代一の繁栄をもたらした名君でした。彼の息子・寿王の妃であった楊玉環が白居易の『長恨歌』で「眸をめぐらして一笑すれば、百媚生じ、六宮の粉黛顔色なし」とまで詠われた絶世の美女でした。その美しさに一目惚れした玄宗は、寵愛していた武恵妃を失うと同時に後宮に迎えてしまいます。745年彼女を貴妃という皇后に次ぐ位の官名に封じました。
華清池(かせいち)
747年、玄宗は都の長安の東約30キロの所に自分の行宮・華清宮を造りました。これらの宮殿は温泉を主として建てられたものなので、華清池とも呼ばれます。「春寒くして浴を賜う華清の池、温泉水滑らかにして凝脂を洗う」という『長恨歌』の一節があります。玄宗が最愛の妃・楊貴妃に湯浴みを賜ったことを記しています。寒さを避けるために、毎年10月になると、玄宗楊貴妃とともにここへやってきて、温泉に浸かり、春までを過ごしました。
華清池は栄華を極めた場所で、二人が愛を確かめあったことにぴったりの舞台といえます。が、一代の名君と褒めたたえられた玄宗が転落して堕落の天使になりました。毎日楊貴妃と歌舞、音曲、酒に明け暮れて、我が世の春を謳歌しました。愛情におぼれた彼が政務をおろそかにするあまり世が乱れ、ついに755年安禄山の乱を招きました。
楊貴妃の温泉
756年、戦火から逃れるため、皇帝は楊貴妃を始めとする身内と僅かばかりの側近を連れて四川に向かいましたが、百里ばかり進んだ馬嵬坡で、当時権力を独占していた楊貴妃の一族に対し、随行将兵たちの不満が爆発しました。軍を追われる羽目になる玄宗は兵の要求によりやむを得ず楊貴妃に命を絶つことを命じました。かくて楊貴妃は首つりで38歳の生涯を閉じました。
後に華清宮が数々の動乱で焼失され、だんだん衰えていきました。再び注目を浴びたのは、1936年12月12日のことです。西安事変の折、ここは蒋介石が張学良らに監禁された所です。蒋介石が過ごした五間庁の壁と窓に残された弾痕が生き生きと事変を物語っています。
西安事変の五間庁
新しい中国が成立した後、敷地内から玄宗皇帝専用の湯浴み・蓮華湯や、楊貴妃専用の海棠湯、宮女専用の尚食湯、唐の太宗皇帝の星辰湯などの湯殿遺跡と数多くの建築材にとどまらず、漢代の地層から新石器時代の陶器の破片も発掘されました。華清池を一層明らかにするのにこれらの文物は確実な資料を提供しています。
1959年、歴史書の記録に基づいて遺跡の上で華清池が一部復元されました。現在、湯殿遺跡と梨園遺跡が一般に公開されています。玄宗楊貴妃との寝室であった飛霜殿や、楊貴妃が入浴後髪の毛を乾かしたという飛霞閣なども見ものです。皇族の庭園に設けられた敷地内は池や緑に囲まれて美しいリゾートです。冬になると、湯元では温泉の湯気が霜のようにたちこめます。2007年、華清池は天下の名湯として国家観光局から5Aクラスの観光地資格を取得しました。
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